モノと愛着の話
例えば安物の腕時計だとしても、ある人にとっては特別なモノになりうる。
愛用しているモノを失くしたり壊したりしてしまえば、喪失感も大きいだろう。
直せば使えるなら、もちろん直そうと試みるだろう。
それはただの腕時計だが、その人にとっては体に馴染んだ特別な腕時計だからだ。
どのようにして特別になったかはわからない。
なんとなく毎日使用し、どこに行くにも着けているうちに、しっくりくるようになったからかもしれない。
自分にとって特別な人からの贈り物かもしれない。
あるいは、好きだったおじいちゃんの形見かもしれない。
自分だけの特別なモノに親しみを感じるようになる。
人はモノにも愛着を持つことがある。
モッタイナイという言葉が世界的に注目を集めたことがあった。
環境問題の観点からリデュース・リユース・リサイクルの必要が叫ばれ、モノを大切にするという考え方としてMOTTAINAIという世界共通語が誕生した。
しかし最近、モッタイナイという言葉を聞くことはあまりないように感じる。
僕が子供だった頃は、親や先生に、モッタイナイと言われた記憶がある。
ご飯を残す時の罪悪感は、そこに由来しているのかもしれない。
今は給食でも無理に食べさせることは良くないということで、指導の仕方も変化してきているらしい。
ミニマリストという言葉も流行った。
必要最低限のモノで生活するというスタイルを実践する人のことだそうだ。
ミニマリストとモッタイナイ精神は似ているようで違う。
ミニマリストは、現代の余分に溢れかえるモノをスッキリさせていき、シンプルな生き方こそ豊かにさせるという考え方である。
モッタイナイ精神は、モノが貴重で、大切にとっておきたいという気持ちであり、
モノに対する価値観に違いがある。
溢れかえるほどモノがある時代と
必要なモノがギリギリ手に入るか入らないかの時代では、モノに対する考え方が異なるのは必然的だ。
同時に、先述のモノに対する特別感(愛着)も持ちにくいのではないかと感じる。
僕らが手にしている身の回りの多くのモノは、大量生産され、安く売られているものだ。
僕が仕事に使用しているペンと、電車で隣に座ったおじさんがメモ用に使っているペンが同じだとしても、何も驚きはしない。
誰でも持っている、それが意識されれば特別感は持たない。
そしてそのペンを失くしたり壊したりしたなら、同じものかそれに似たモノを、コンビニで買えば良い。
いつでも換えが効くということも、特別感をなくす。
不要になったモノはメルカリで売ればいいし、思い入れよりもお金に変えられた方が良い。
日本では八百万の神と言われるように、どんなモノや自然にも神が宿ると信じられてきた。
ご飯粒一粒にも神様がいると言われたことがある人もいるのではないだろうか。
本当に神が宿っているかどうかは置いておくが、そういった畏敬の念に似た、モノに対する想いがあった。
現代では、そのような考え方はあまりされないだろう。
納骨する場でさえ、ロッカーのようなところに綺麗に並べられて管理されるようになった。
祖父も今お寺の納骨堂に居るのだが、初めて見た時、まるで死んだ後のアパートのような印象を受けた。
お墓であれば、そこに祖父が眠っていて、魂もそこにあるのだろうとイメージしやすい。
これもモノに対する感じ方の変化に似ている。
どこか気持ちの部分が置き去りにされてしまったような感じがある。
人とモノの関係が変わりつつある今でも、愛着が持てるモノがある人は、愛着を持てる心があるとも言えるし、豊かなことだと思う。
万年筆でもマグカップでも時計でもなんでも良いが、そこに注げる気持ちがあること自体が人間味があって面白い。
最近キャンプが流行っている。
僕も焚き火が好きなので、キャンプにはよく行く。
いくつか道具を持っていくが、そういう趣味の中にお気に入りのモノがあるのも良い。
自殺予防教育について
最近「9月1日問題」という言葉をよく耳にするようになった。
夏休みが明けると同時に、不登校や子どもの自殺が増加する傾向があることから、問題視されている。
日本は自殺大国と言われるほど自殺が多い国なのだが、全体の自殺者数としては減少傾向にある。
一方、子どもの数は減っているのに子どもの自殺者数は横ばいかむしろ少し増加している。
近年、教育委員会は子どもの自殺予防教育プログラムを実施するようになってきた。
この自殺予防教育というのは、子どもと親、教員に対して、実施される。
内容
①子どもに向けて
・自分の気持ちに気づく練習
辛いことがあると知る。言葉にしてみる。
・心が苦しい時は誰にでもあることである
おかしなことではない。あなたが弱いわけではない。
・信頼できる大人に伝える
自分一人で抱えないこと。友人から「死にたい」などと相談された場合も同じ。
②大人に向けて
・心の危機のサインを知る。
自殺リスクの高い児童の傾向を知る。
・相談された時の対応の仕方を学ぶ。
自殺は良くない、命は大切など、正論を伝えるのではなく理解を示す。など
・社会資源、地域の援助機関を知る。
外部で相談できるところを知っておく。
こういった内容を、リーフレットで配布したり、事前に研修を受けた教員や講師が「心の健康の授業」などとして子どもたちに伝える。
今回、その自殺予防教育がいかに大事かという講話を研修で聞いてきたわけであるが、この自殺予防について前々から思うことがあったので、少し書いていこうと思う。
前提として自殺予防という観点はすごく必要なことであると思う。
その上で、自殺予防教育の内容についての疑問に思ったことを書いていく。
1、本当に死にたいと思っている子の胸に響くものであるか
自殺予防のリーフレットを見たときに、当たり前のことが書いてあると感じた。
これらはすべての児童に配布されるものであり、慎重に検討され尽くされたものだ。
自殺について扱う場合、特に言葉を選び、刺激にならないように配慮されている。
そのため万人に受け入れられるものでなければならない。
逆に言えば、一個人に刺さるには薄められすぎている気がした。
もちろん、死にたいわけではないが悩みがあるという子どもはたくさんいる。
そういう子にとって、自殺予防教育は自分の苦しさに気づけたり、誰かに相談する大切さを知るきっかけになるかもしれない。
しかし、今まさに死にたいと思っている子にとって、これらの内容は響くのか疑問がある。
何が理由かは置いておくが、もう明日死ぬと決めている子がいたとして、
心の授業として、リーフレットが配られ「苦しい時は誰かに相談しよう」などと言われて死ぬのをやめようと思えるだろうか。
昨年の子どもの自殺者数は357人。
子どもの数は大体1500万人。
実際の数にすると、子どもの自殺者数は全体の0.003%に満たない。
しかし確実に存在するこの子どもたちに、如何に響くかを考えて実践しなければ、本当の自殺予防にならないのではないか。
2、子どもの自殺がなぜ起きるのかという視点が議論され尽くしていない
子どもの自殺事案について、ニュースなどで取り上げられるのは、イジメの案件が圧倒的に多い。
しかし、実際は子どもの自殺の要因は、家庭のことから、うつ病などの精神疾患、将来への不安など、様々ある。
これらは要因として挙げられているが、これは表向きな要因だと僕は思う。
どういうことかと言うと、上に挙げた要因とされるものを体験している子で、自殺してしまう子としない子がいる。
自殺する子としない子の違いはなんなのか。
その子自身の性格だったり、周りの環境だったりが複雑に絡んでいるのだろうが、もっと掘り下げて考えるべきだと思う。
ニュースでも自殺の原因はイジメであったと主張する遺族と、イジメが原因ではないとする学校の対立などが報道されたりするが、これが原因だと言えるものが本当にあるのだろうか。
答えなど用意せず、議論していくことが、自殺予防の手がかりを考える上で必要なのではないだろうか。
3、死について語ることがタブー視されている社会
僕は子どもの頃、死というものが恐ろしくてたまらなくなった時期があった。
今ではそれほど感じないのだが、同じようなことを思ったことがあるという人が結構いる。
この死の恐怖について、学校の授業などで扱われたことはない。
それだけでなく、死んだらどうなるのか、なぜ人は生きるのか、そういった問いを学校では扱わない。
それらの問いは個人の宗教観にも関わってくるので、デリケートな問題とされているのか。
もしくは明確な答えがないものなので、扱えないのか。
(僕は常々、学校教育は答えのない問題を扱うのが下手くそだと感じている)
自殺を考えるなら、「死」についても考えなければいけないはずである。
もし子どもに「どうして自殺したらダメなの?」と問われた時、大人はどう反応するだろうか。
最後に
死にたいと思っている子は、生きている現在が苦しみに満ちているのではないか。
生きる意味を失い、死によって解放されたいと思っているのではないか。
そんな子にとって、今の自殺予防教育が救いになるようには僕個人としては想像できない。
それより死のテーマを扱っていくことが、重要なのではないかと思う。
それも1回ではなく、長く時間をかけて、哲学する力をつける方が大事ではないか。
死について考えることは同時に、生について考えることでもある。
これは教育というより、大人も一緒になって考えることが望ましい。
自殺予防教育などというのは、目に見える現象に対して継ぎ接ぎ的な対処をしているだけのように感じる。
それよりも考える力、生きる力をつけていくことが、結果的に子どもだけでなく大人の自殺者数も減らすことになるのではないか。
精神エネルギーという考え方
空想の話
もし、人に精神的なエネルギーというものがあって、それが数値で表せたり、そのエネルギーのやりとりができると仮定してみたら面白い。
ドラゴンボールやHUNTER×HUNTERやNarutoなどの漫画のように。
スカウターで気の量を確認できたり、念能力やチャクラが目に見えたりしたら。
漫画のような肉体的な力に関するエネルギーとはまた異なるが、精神的なエネルギー(分かりやすく考えるなら気持ちの強さ)みたいなものがあるとして、人はそのやり取りを人間関係で行なっているのではないか。
例えば、何かにイライラしている人がいて、腹いせに他の誰かを殴ったり、あおり運転をしたりする。
やった方はスッキリして、やられた側はその分のエネルギーまで引き受けさせられる。
怒り(70)パンチ→恐怖(40)怒り(30)受け取る時に気持ちは変わるかもしれないが、エネルギーを送られるような感じ。(数値に意味はない)
もっと日常的に考えると
上司のパワハラ(怒り)→社員A(悲しみ、恐怖、怒り)
社員Aの愚痴(不満、怒り)→Aの友人B(不満)
上司はその前に奥さんから、家庭や子育てに関する愚痴や不満を言われたりしているかもしれない。
精神エネルギーはどんどん次の人へと移されていく。
こういう場合もある
恋人ができたCさんのノロケ話(喜び、楽しみ)→友人D(喜び、妬み、怒り)
クラスメイトからのイジリ(楽しみ)→イジられ役(楽しみ、悲しみ)
精神エネルギーを発信する側と受け取る側ではその質が変化して伝わる場合もある。
精神エネルギーはその感情の質を変えながら、人から人へと伝えられていく。
発信する側が受け取る側のことを配慮しなければ、楽しみを共有することもできるが、苦痛を与えることもある。
また1対1でのやり取りだけとも限らない。
特にSNS上では一人から不特定多数に個人的な気持ちを発信できる。
逆にネットの炎上は多数から一人に対して、気持ちをぶつけられる。
エネルギーの量的なことで考えれば、一人の発信を多数で受け取る分には、聞き流せるレベルまでに分散される。
しかし、多数から一人に対してでは、何気なく放ったものでも蓄積され相当量のエネルギーに膨れ上がる。(孫悟空の元気玉みたいな)
その質が良いものであれば、人を元気にさせることもできるし、悪意があれば簡単に心を折ることもできてしまう。
精神エネルギーのやり取りをしていると考えるなら、それは循環していくものと理解することもできる。
誰かに与えたものは、やがて何かの形で自分に返ってくる。
ボランティアが援助に行ったつもりが、逆に元気をもらった、何か強い影響を受けたと言う体験をする人がいる。
そこではエネルギーを与えるだけでなく、受け取ってもいるからであろう。
誰かにエネルギーを発信する時、どのように発信するべきかを考えることも大切であろう。
受取手も同様である。
どのように解釈するかで、エネルギーの質が変化する。
エネルギーの質を変えることができることは、重要なことだ。
お笑い芸人などは、ネガティブなエネルギーを受けた時、それをネタとしてポジティブなエネルギーに変えて客に返してくれる。
芸人に限らず、アーティストや何かを創造する人は、あらゆるエネルギーを互換する能力が優れている。
人と関わる仕事(どの仕事も誰かと関わっているのだが)、カウンセラーもそうだが、特に人の感情に直接的に関わる仕事に就く人は、精神エネルギーの変換と自分なりの発信も身につけなければいけないのではないだろうか。
そうでないとパンクしてしまう。
以上
精神エネルギーがもしあったら、という空想のお話
9月、不登校、自殺について
夏休みが終わった。
9月は不登校そして子どもの自殺が増えるということで、最近ではメディアやネットでもその話題を目にすることがある。
スクールカウンセラーの僕も休み明け、何か変わったことが起きていないか、いつもより注意を払う。
長い休みの後の学校、いつもに増して憂鬱になる子どもが少なからずいる。
日曜日のサザエさんを見ると、なんとなく嫌だなぁと思う感じ。
今だって休み明けの仕事は、たとえ仕事が嫌いでなくても、行きたくないなと思うことがある。
大人だって思うこと。学校が嫌いじゃなくても思うこと。
もし学校でイジメられてたりしたら、学校に居場所がないと感じていたりしたら、その憂鬱さはどんなだろう。
次の日の朝が来るのが怖くて眠れないかもしれない。
喉が詰まって、ご飯も食べれないし、美味しく感じないかもしれない。
頭やお腹が痛くて、薬を飲んでも医者に行っても原因がわからないと言われるかもしれない。
何をしても、誰といても、楽しいと思えないかもしれない。
自分一人だけ、みんなが普通に行っている学校に行けなくて、孤独で、一生このままのような気持ちになるかもしれない。
これは想像。
だから本当のところは分からない。
どれほど辛いのか、案外辛くないのか、何をしてる時が楽しいのか、本当は学校に行きたいのか行きたくないのか、
部屋で何をしているのか、どんな動画を見たりゲームをして過ごしているのか、ネットには友達がいるのか、どんな本や漫画や音楽が好きなのか、
彼らの声を聴かないと分からない。
ゆっくり、辛抱強く。
「学校に行かなくてもいい」ということが良いとされているが、
もしかしたら、学校に行きたくないわけでもないかもしれない。
「行きたいのに、行けない」のかもしれない。
大事なのは、「学校に行かないという選択肢もある」ということ。
そして学校に行かないという選択肢から、実はさらにいろんな選択肢が広がっている。
誰かと同じよう生きる必要はない。
不登校であるということ。
不登校を続けるということ。
これは学校へのストライキ。
それを維持し続けることは、実はすごくエネルギーがいること。
学校に行かないことを選択した人は弱いわけではない。
カウンセリング的、相談の乗り方 〜聞くことと聴くこと〜
カウンセリングでは聴くことと聞くことが求められる。
相手の話に傾聴し、気持ちを理解しようと努める。
聴という字は、音楽を聴く、視聴者、聴衆、といった言葉に使われる。
共通しているのは、聴く側は受け身であるということ。
聴く側と聴かせる側(発信する側)は、はっきり分かれている。
一方、聞く(訊くという方がわかりやすいかもしれないが)には、もう少し能動的なニュアンスを含んでいる。
それは相手に対して、質問したり、議題を投げかけて、聞きだすという側面だ。
聞く側の知りたいことや疑問が出発点になっている。
人間関係を円滑にしていく上で、共感は重要な役割を担っている。
特に日本人は共感することに長けている。
察すること、空気を読むこと、以心伝心、暗黙の了解、、、これらもお互いの共感があって、成り立っている。
時に共感が行き過ぎて、それに苦しめられている人も少なくないが、その話は一度置いておく。
悩んでいる人に対して、共感的に聴いてあげることは大切である。
例えば、
愚痴をこぼした時にアドバイスをされ、「ただ聴いて欲しかっただけなのに」という気持ちを経験したことがある人もいると思う。
この場合、どうすべきかは本人も既に解っていて、解っているけどできないところに困った気持ちがある。
解決策が知りたいのではなく、共感を求めているのだ。
共感はただひたすら聴いてあげればいい、というわけではない。
悩みや愚痴を聞く経験があれば思い出してみてほしい。
全て共感できることばかりだっただろうか?
気持ちはわからなくもないが、ここはどうだろう?とか
それは考えすぎでは?とか
それこそ意見を言いたくなるようなこともある。
当然のことだが、人と人とが全く同じように感じることはない。
話を一方的に聴くことに徹して、共感している様に装うことはできる。
「うんうん」とうなづいてみたり、相手の目をじっと見てみたり、考えるそぶりを見せることもできる。
しかし、小手先だけで共感したふりをしていても、それが偽りだと相手に伝わることもある。
時には、胡散臭い、わざとらしい、いいかげん、とマイナスに受け取られてしまうこともある。
営業などのテクニックとしては共感を装うことは有効かもしれない。
一方、親しい人から相談された時、親しいからこそ無理をして共感はしたくない(嘘をつきたくない)と思うこともあるだろう。
共感には一方的に聴くという側面だけでなく、こちらから聞いていくことも実は大切である。
聞くべきことは聞きたいこと
悩み相談にしても愚痴にしても、その人が今まさに不満に思っている状況があるはずである。
まずはその状況を充分に自分が理解できるように聞いていく。
これは自分が共感できるポイントを探す作業とも言える。
具体的にイメージすることで、共感しやすくもなる。
相手の話の中に入っていきやすくなる。
⚠️但し、自分の聞きたいことが優先されて、相手の話したい筋と違う方向に行ってしまうのは本末転倒である。
あくまで相手の話の筋に沿って聞いていくべきである。
違和感に気づく
先も述べたが、全く同じように考え、感じる人はいない。
当然どこかにズレは生じるはずである。
ここは共感できるが、ここは自分と少し違う。自分ならこうする。
恐らく、アドバイスしたくなる人は、ここで意見を言ってしまうのだろう。
ズレを感じるのは自然なことである。
むしろ共感しすぎて、ズレに対して鈍感になっている人の方が問題と言える。
このズレたところこそ、その人たらしめる個性であり、悩みや問題となっているポイントである。
ここでアドバイスや、自分の意見を述べるかどうかは、相手のためを思うなら慎重になるべきだろう。
では聞くという形で伝えるのはどうだろう。
「僕ならこう思いそうだけど、あなたはどう思う?」
ズレを確認し、かつそれが良い悪いでもなく、相手が感じたことを聞いていく。
また、相手が感じたことをもう少し掘り下げて聞く。
「そう思うのは、どういうことなんだろう?」「その気持ちについて、もう少し教えて」
共感した気にならず、むしろ違和感の方を大事にすることで、より理解を深めることができる。
想像力で補う
ズレた上で共感できるのは、想像力があるからである。
自分ならそうはならないかもしれないが、そう思っても不思議ではない。
わからんでもない。という感覚である。
相談者の性格を想像すれば、そう思うだろうな。
相談者の性格を考えて、さらにその相談者と関わる人はこんなことを感じていそうだな。
そういったことを踏まえて、補足するために聞いていくのも有効だ。
それでも共感できなければ、無理して共感する必要はない。
しかし同時に共感できる材料を自分は持ち合わせていなかった、あるいは自分の中の何かが抵抗して共感できない気持ちになっているという可能性もある。
ということを頭の片隅に置いておくのが良い。
全く共感できない人を前にして、自分とは合わないと決めつけてしまう前に、自分について振り返る機会にするのが建設的である。
聞くことと聴くことを通して本当の共感ができる。
本当の共感はむしろズレを意識した先、さらに想像力によって得ることができる。
吉本の問題、メディアの問題、そして自分自身の問題
ここ数日、メディアでは吉本興業と芸人たちの話題が盛りだくさん流されている。
人気芸人の引退に関わる出来事なだけに世間も大注目だ。
振り返るまでもないが、もともとは特殊詐欺グループが行ったイベントに芸人が闇営業という形で関わったというところから始まっている。
芸人たちはそのイベント主催者が犯罪グループだと知らなかったわけだが、金銭を受け取ったかどうかという点で、当初もらっていないと発言したことから、問題が大きくなってしまった。
当然、世間的からは大バッシング、大炎上。
しかし事態は宮迫と田村亮の自らが開いた会見によりさら展開し、今度は吉本興業の体制の問題へと変わっていった。
吉本興業と芸人たちとの間にある問題がここに来て、どっと表面化し、会見を開くもさらに燃え上がってしまった形だ。
一斉に吉本興業、岡本社長叩きは加速し、当然のように進退を迫られる。
これに乗っかった形で芸人たちも今までも不満を一気にぶちまけている印象である。
しかし、ここで一度冷静に立ち止まって考えてみると、疑問が浮かんでくる。
これは何の問題で、誰の為の会見だったんだっけ?と。
それぞれの会見を見てみると、一様にまずは詐欺グループ被害者の方への謝罪が述べられている。
それはつまり被害に遭った人のお金をもらっていたということについてだ。
ということは、被害者の方への謝罪会見になるのだろうか?
それが会見の主旨だと言われると、僕はしっくりこない。
事実、今はすでに話題は大きくズレている。
そもそも被害者の方は、会見を受けて気持ちがスッキリしただろうか?
頑張って想像して被害者の気持ちになってみよう。
まず謝って欲しいのは、何と言っても騙してきた張本人たちだ。
お金だって返して欲しい。
闇営業のイベントでお金を受け取った芸人たち、フライデーに載った楽しそうな集合写真を見ると、腹が立つかもしれない。
でも引退どうのこうのされても別にお金が返ってくるわけでもないし、気持ちよくはない。
というか話題がすり替えられて、詐欺グループが注目されてない方が悔しい。
奴らはもう普通に社会に出てるのかな?ニュース見て笑ってるのかな?
吉本のことよりそっちを教えてくれよ、そっちを叩いてくれよ。
僕が被害者なら、そんな風に思いそうだ。
ではこの会見は誰のために?
会見の本質は世間への説明だ。
注目されていればいるほど、会見が求められる。
つまり視聴者と、視聴率を得られるマスメディアのために行われている。
そしてその内容の印象によって、あっちこっちに炎上先は変わる。
あれほど嘘をついたとしてバッシングの対象となっていた宮迫たちは、ブラック事務所に所属する可哀想な芸人たちに変わり。
憎むべきは吉本興業、あのパワハラ社長を許しておけん、となる。
吉本興業と芸人たちの問題なのであれば、どうしてここまで注目する必要があろうか。
確かに人気の芸人たちが辞めて、テレビで見れなくなるのは悲しい。
しかし、炎上させていたのはまさに視聴者側ではないのか。
ブラックな会社は許せない。
周りの会社はどうだろうか?もっとブラックな企業はないだろうか?
過労死や自殺する人がいる会社が日本にはまだまだあるのではないか?
問題は今や吉本興業と芸人たちの契約の内容だ。
芸能事務所は聞くところによると、芸能人は個人事業主という形で、事務所と個々で契約を交わすらしい。
ということはもはや個人と会社の問題。
そう、個人の問題だ。
契約に不満があるなら、訴えるなり、変えていくための話し合いをする。
今まで契約書もなく、給与の取り組みも曖昧で、なぜ不満の声こそあれ変えようとしなかったのか。
これは誰かの問題ではなく、個人の問題だ。
会社の圧力がそれこそ問題なのなら、労働組合的な団体を作ろうとする動きがあってもよかったはずだ。
事務所と個人事業主は対等なら、交渉だってできる。
なぜしなかったのか。
これまでの慣習に疑いもなく従ってきたからである。
何も吉本興業にだけ言えることではない。
自分の身の回りの学校や会社でも、疑問に思うこと、不満に思うことはあるはずだ。
変わらないと思い、主張もなく、流されるままになってはいないだろうか?
この吉本興業の話題がここまで炎上しているのは、そこに何かを重ねた人たちが心を動かされているからではないだろうか。
自身の周りの不満や苛立ちをこの騒動に投影し、自分のことのように腹を立てたり、岡本社長が辞めることを望んだり、炎上騒ぎをどこか気持ちよく感じたりしているのではないだろうか。
ただメディアからの情報で感じたままにSNSに投稿するだけでは、自分の中の本質的な不満は、一時的にしか解消されない。
本当に考えるべきは何なのだろうか。
最後に僕はお笑いは大好きだ。
日常にある投影
今回は日常で起こる投影について考えてみたい。
心理学で言う投影とは
心理学における投影とは、自己のとある衝動や資質を認めたくないとき(否認)、自分自身を守るためそれを認める代わりに、他の人間にその悪い面を押し付けてしまう(帰属させる)ような心の働きを言う。たとえば「私は彼を憎んでいる」は「彼は私を憎んでいる」に置き換わる。(「投影」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』より)
要は自分の気持ちであるはずなのに、それを他者に押し付け、他者がそう思っているように感じると言う現象のことだ。
厄介なのは、自分の気持ちであったはずなのに、それを意識できないところにある。
自分の感情は忘れられてしまう。
心理テストに投影法(ロールシャッハテストが有名)と言うものがある。
曖昧な刺激を被検査者に見せ、その反応によって、どのような投影が起こっているのかを分析すると言う方法だ。
投影は人だけでなく、モノに対しても起こる。
日本では月の模様は一般的に「餅をついているウサギ」に見える。
本当にそう見えるだろうか?(僕はそうは見えない)
海外でも月の見え方はいろいろある。
例えば、
カナダ→「バケツを運ぶ少女」
北ヨーロッパ→「本を読むおばあさん」
東ヨーロッパ・アメリカ→「女性の横顔」
アラビア→「吠えているライオン」
他にも「犬」「ワニ」「ロバ」等々、同じ模様でも、見え方が全く違うところが面白い。
どんな見え方が正解ということではない。
10人いれば10人違う見え方がある。
月の模様がの他に、天井のシミが人の顔に見えたり、雲の形が何か別のモノに見えたりするという経験は誰しもあると思う。
このような現象も自分の無意識のイメージを投影することによって起こっていると考えられる。
普段僕たちは自分で考え、意志を持って生活していると思っている。
しかし、自分たちにも気づかない心の深いところに無意識は存在し、活動している。
意識していない、何気ない瞬間に無意識は顔を出すことがある。
それが月の模様だったり、漠然としたモノ(人)を通してイメージとして現れることがある。
・何か理由はわからないけれど苦手なモノ
・なぜか一緒にいると腹が立つ人
・生理的に無理な人
・お隣さんに対して不快感がある
・嫌いな芸能人、好きな芸能人
・過剰に反応してしまう出来事やニュース
などなど
これらの感情は元を辿れば、自分がそうさせているのかもしれない。
意識的には説明のつかない感情なども、無意識の投影が働いてる可能性がある。
そういう意味で、月の模様も、感情的にさせる人やモノも、自分の心の鏡と言えるかもしれない。
他人の不倫事情に対して、どうして自分はそこまで感情的になるのだろうか?
炎上が起こるのはなぜだろうか?
善悪に対して潔癖になっている現代社会では何が起こっているのだろうか?
そう言ったことを考える今日この頃。