モノと愛着の話

例えば安物の腕時計だとしても、ある人にとっては特別なモノになりうる。

愛用しているモノを失くしたり壊したりしてしまえば、喪失感も大きいだろう。

直せば使えるなら、もちろん直そうと試みるだろう。

それはただの腕時計だが、その人にとっては体に馴染んだ特別な腕時計だからだ。

どのようにして特別になったかはわからない。

なんとなく毎日使用し、どこに行くにも着けているうちに、しっくりくるようになったからかもしれない。

自分にとって特別な人からの贈り物かもしれない。

あるいは、好きだったおじいちゃんの形見かもしれない。

 

自分だけの特別なモノに親しみを感じるようになる。

人はモノにも愛着を持つことがある。

 

モッタイナイという言葉が世界的に注目を集めたことがあった。

環境問題の観点からリデュース・リユース・リサイクルの必要が叫ばれ、モノを大切にするという考え方としてMOTTAINAIという世界共通語が誕生した。

しかし最近、モッタイナイという言葉を聞くことはあまりないように感じる。

僕が子供だった頃は、親や先生に、モッタイナイと言われた記憶がある。

ご飯を残す時の罪悪感は、そこに由来しているのかもしれない。

今は給食でも無理に食べさせることは良くないということで、指導の仕方も変化してきているらしい。

 

ミニマリストという言葉も流行った。

必要最低限のモノで生活するというスタイルを実践する人のことだそうだ。

ミニマリストとモッタイナイ精神は似ているようで違う。

ミニマリストは、現代の余分に溢れかえるモノをスッキリさせていき、シンプルな生き方こそ豊かにさせるという考え方である。

モッタイナイ精神は、モノが貴重で、大切にとっておきたいという気持ちであり、

モノに対する価値観に違いがある。

 

溢れかえるほどモノがある時代と

必要なモノがギリギリ手に入るか入らないかの時代では、モノに対する考え方が異なるのは必然的だ。

 

同時に、先述のモノに対する特別感(愛着)も持ちにくいのではないかと感じる。

僕らが手にしている身の回りの多くのモノは、大量生産され、安く売られているものだ。

僕が仕事に使用しているペンと、電車で隣に座ったおじさんがメモ用に使っているペンが同じだとしても、何も驚きはしない。

誰でも持っている、それが意識されれば特別感は持たない。

そしてそのペンを失くしたり壊したりしたなら、同じものかそれに似たモノを、コンビニで買えば良い。

いつでも換えが効くということも、特別感をなくす。

不要になったモノはメルカリで売ればいいし、思い入れよりもお金に変えられた方が良い。

 

 

日本では八百万の神と言われるように、どんなモノや自然にも神が宿ると信じられてきた。

ご飯粒一粒にも神様がいると言われたことがある人もいるのではないだろうか。

 

本当に神が宿っているかどうかは置いておくが、そういった畏敬の念に似た、モノに対する想いがあった。

 

現代では、そのような考え方はあまりされないだろう。

納骨する場でさえ、ロッカーのようなところに綺麗に並べられて管理されるようになった。

祖父も今お寺の納骨堂に居るのだが、初めて見た時、まるで死んだ後のアパートのような印象を受けた。

お墓であれば、そこに祖父が眠っていて、魂もそこにあるのだろうとイメージしやすい。

 

これもモノに対する感じ方の変化に似ている。

どこか気持ちの部分が置き去りにされてしまったような感じがある。

 

 

人とモノの関係が変わりつつある今でも、愛着が持てるモノがある人は、愛着を持てる心があるとも言えるし、豊かなことだと思う。

万年筆でもマグカップでも時計でもなんでも良いが、そこに注げる気持ちがあること自体が人間味があって面白い。

 

最近キャンプが流行っている。

僕も焚き火が好きなので、キャンプにはよく行く。

いくつか道具を持っていくが、そういう趣味の中にお気に入りのモノがあるのも良い。