心理学的な理解やカウンセリングが求められ始める時代

 最近ニュースで、精神科医や心理カウンセラーといった肩書きを持つコメンテイターが見かけられることが増えた。また、事件や社会的問題について心理的な分析を専門家に依頼するケースもよく目にする。

 つい先日の川崎登戸の殺傷事件についても、死亡した犯人について、動機や性格などを警察はもちろんプロファイリングしている。その凄惨な犯行から、「なぜこのようなことが起きてしまったのか」と言う点を誰しも考えるようになる。報道では、犯人の生育歴から生活環境まで扱っているし、そういった情報からネットでも様々な意見が飛び交っている。

 

 僕たちは起こってしまった出来事に対して、「なぜ起きてしまったのか」「どうしてこうなったのか」と言うことを考えることが癖になっていると思える。この合理的に処理しようとする思考は、同じ過ちや悲劇を繰り返さないためにする手段である。起きたことが、自身にとって好ましい結果なら、もう一度そうなるように、またはさらに上手くいくようにと考える。

 この合理的な考えが科学的にも物質的にも誰が見ても明らかで、納得できるものであれば、その原因と結果の道筋が正しいかのように見える。この正しいかのように見える

と言うのが、意外と厄介だと思っている。

 

 例えば、今回の事件について、犯人がなぜ犯行に及んだのか、それっぽく考えてみよう。報道によると犯人は51歳の男性で叔父叔母と同居していた。幼少期から家庭の環境に恵まれず、社会的に孤独感を強めていた(かもしれいない)。学生時代は「怒りっぽい性格」「すぐに暴れる」「からかわれやすい」と同級生は語っており、卒業後は音信不通だったとのこと。高校には行っておらず、仕事は点々としていたとのこと。

 「怒りっぽい」「暴れる」と言う点において衝動性が高い気質の持ち主(かもしれない)。「からかわれる」原因は周りになじめない、空気が読めない性格で、(もしかしたら)知的にも低かった(のかもしれない)ため高校に行けなかった(かもしれない)。(以下かもしれない省略)さらに卒業後、仕事の人間関係でもからかわれ、衝動性の高さによってトラブルは続いた可能性もあり、点々と職を変えた。

 そのため信頼の置ける人間関係は築けておらず、友人もいない。次第に孤独感を強めていった犯人は、自殺に思い至る。しかし孤独感と絶望感は社会への恨みに代わり、道ずれに無差別な殺人を決意し、犯行に至った。

 

 以上、報道やネットから拾ってきた、極々少ない情報からそれっぽく考察してみた。しかしこの考察が正しいと個人的には思っていない。いや、99パーセント間違っていると思っている。しつこく「かもしれない」を強調したのはそのためだ。

 一つの見方として、上述のような考察はできる(実際ネットで似たような考察がされていた)が、動機も性格も犯人の生育歴も、これが全てではないはずだ。

 例えば、同級生は今回のことがあり、「怒りやすい」「暴れる」と言う印象だけを語ったのかもしれないし、本当は友人もいたのかもしれない(事件後、友人がいたとして、わざわざ名乗り出る人はいない)。高校卒業後も趣味に没頭して、自由にやっていたかもしれない。

 また、例え孤独な生き方をしていたとして、同じような境遇の人が皆、殺人犯になるわけではない。孤独→怨み→殺人と言うシンプルな説明はするべきでないと感じる。

 犯行の動機も、その日たまたま同居人と激しい喧嘩をし、衝動的に飛び出したのかもしれないし、たまたま包丁を手にしていたら、人を切りたいと思ってしまったのかもしれない。カミュの『異邦人』では殺人を犯した主人公は、殺人の動機を「太陽が眩しかったから」と言っている。

 

 結論として僕が言いたいのは、全てを理解することなどできないと言うことだ。わかったような気になることはできても、本当のところは実は分かっていないことの方が大きい。自分に都合のいい解釈、価値判断をしてしまうもので、それっぽい合理的な説明があれば、そうだとしか思えなくなる。

 原因があり、結果がある。と言う考え方に固執しすぎると、見落としてしまうことの方が多いように思える。

 心理的な分析も、統計的な観点から傾向はわかるかもしれないが、全てではない。

 

 しかし我々は、最初に書いたように「なぜこのようなことが起きてしまったのか」ということに対する答えをいつも求める。どうにか説明のつく形にするために、心理学やカウンセリングに手を出し始めた。

 なんとか分かろうとする姿勢は必要だと思う。しかし同時に、何もかもが明らかになるわけではない、という前提を持つ必要がある。そして、分からないものを分からないまま持ち続け、悩んだり、思考を熟成させていくことが、答えを知るよりも大切なのではないかと思う。

 

 

 最後に、僕は犯人を擁護しようとも、同情するとも思ってはいない。事件のことで悲しみや恐怖を感じるのはもちろん、被害者やその家族のことを考えれば、言葉にできないくらい辛い体験だったと想像する。いや、想像を絶する苦しみがあるだろう。

 そう言った方々への精神的なケアも今後必要になってくるはずである。

 例えば被害者遺族や関係者に対して、あなたの精神的ショックは親しい人を傷つけられた、あるいは殺されたからである、と原因を言い当てられたところで、心が楽になるわけではない。むしろその苦しみや悲しみ、やりきれなさ、身に起きた理不尽な体験を、時間をかけてゆっくりと受け止め、消化していくしかできない。周りにできることは、共に寄り添ってあげることであると思う。