不登校はその原因より意味を考える
不登校の相談は僕の感触的にケースのうち半数にのぼっている。
時々休むという人や、学校に通ってはいるが行きたくないという生徒を含めるともっと多いかもしれない。
実際に不登校者数は小中では年々増加傾向にある。
高校の場合も数自体は減っているが、通信制高校への転入が増え、数値では見えないところもあるように思われる。
様々な対応や、心理的なケアを学校は行うようにしているが、依然として減らない。
そもそも不登校とは何なのか。
「何らかの 心理的、情緒的、身体的あるいは社会的要因・背景により、登校しないあるいはしたくともできない状況にあるために年間 30日以上欠席した者のうち、病気や経済的な理由による者を除いたもの」
不登校の原因
・家庭の問題
・学校の問題
・個人の問題
この三つから原因を探すことが多い。
原因が分かれば、これを解決するためにどのような働きかけをすればいいのかわかると思えるからだ。
しかし事はそう単純に進まないことが往々にしてある。
原因が分からないというケースはよくある。
本人も何故学校に行きたくないのか、行けないのかがわからない。
原因がわからないとなると、親も学校の先生もどう働きかければいいのか分からなくなる。
とりあえず原因があるはずだと本人を問い詰めたり、強行策を取ったり、最後は諦めたりする。
最近では登校刺激を控えた方が良いという考え方が浸透し始め、休むことが大事という意見が一般的である。
しかし実際のところ、家族目線で考えると、休めば休むほど学校に行きづらくなるのではと心配になるのが心情であろう。
高校生の場合だと欠課が増えれば留年になってしまうので、不安や焦りも強くなる。
ではどんな対応が望まれるのか。
結論から言えば、ケースバイケースなのでマニュアルを用意しても仕方がない、というのが僕の意見だ。
なので今回は対応の仕方の方法論よりも、不登校の捉え方を変えることを提案したい。
まず不登校になってからの流れをみながら、考えてみる。
・原因を問い詰める
何故行けないのか本人がわからないと言っているのに聞き出そうとしても仕方がない。
周りが焦っている以上に、本人は自分でもわからない自分の状態にもっと焦っているし、不安だ。
その上、周りから責められるように問われ続ければ立場が無い。
自分がどうしようもなくダメな人間だと思ってしまうだろう。
・登校を強行
無理やり学校に連れて行くやり方は、言わずもがな、本人の気持ちはないがしろにされている。
学校に行ってしまえば普通に過ごしている、という声もよく聞くが、学校に連れて行かれて駄々をこね続けたりする人が逆にいるだろうか?結果次の日も行きたくないのは変わらない。
小学生くらいならまだ無理やり連れて行けるが、中学、高校生にもなれば引っ張って連れていくわけにもいくまい。
・諦める
押しても引いても動かない本人に、周りは最後には諦めるしかない。
ここまで来ると、逆に考え方に変化も出てくる。
どうしようもないという感覚となり、それが突き抜けると、「なるようにしかならない」と思えるようになる。
今まで学校に行かなければならないという執着があったが、諦めることで少し気持ちが楽になったりする。
全てのケースに当てはまるわけではないが、だいたいこのような流れではないだろうか。
いろいろ試行錯誤した上で、諦め、「なるようにしかならない」と開き直った時に、実は好転いていくことが多いように思う。
ここにヒントがあるように思える。
ところで、我々は物事の本質が、原因と結果で成り立っていると考えるのが当たり前になっている。
問題が起こった時、原因を突き止め解決しようという考え方だ。
しかし、人間の心はそんなに合理的にできてはいない。
科学の進歩はあらゆることにエビデンス(根拠)を求めるようになった。
どんな結果に対しても、理由や根拠があると信じている。
ある意味でそれは正しいが、原因と結果が目に見える形として意識で捉えられる形として現れるとは限らない。
むしろ原因と結果で説明がつかないことや、不条理な出来事の方が多い。
そのことを忘れてしまっている。
不登校を考える時も同じである。
その原因は複雑に絡み合い、頭では理解できない状態で、当事者にもわからないかもしれない。
もしかしたら原因などないのかもしれない。
そうなると原因に執着することはナンセンスなのである。
ではどのように考えればいいのか。
それは不登校の意味を考えることだ。
その子が生徒が(自分自身が)学校に行かないのは、どんな意味があるのだろうか。
過去に遡ってその理由ばかりにこだわるのではなく、この不登校が何をもたらし得るのか。
そして不登校は本当に解決すべき問題なのだろうか?と、もう一度問い直してみるのも良いだろう。
多様性が認められる時代、不登校という選択が認められても良いのではないだろうか。
行かないということが問題であるという、枠組みを一度外す必要がある。
そういう視点に立って、不登校の意味を考えれば、学校に通うよりももっと大切な気づきが得られるかもしれない。