梅雨とリフレーミング
6月も終わりに差し掛かっているが、まだ梅雨は明けそうにない。
僕はキャンプや焚き火が好きなので、雨ばかりでは困る。
ところで、天気予報士は雨を「悪い天気」と言わない。
雨が降らないと農作物は育たないし、水不足にもなる。
雨を必要としている人(農作物は誰もが食べるので、言うなればみんなに当てはまるが)にとっては「悪い」天気ではない。
雨自体に良い悪いはなく、雨に価値を付けているのは個人の考えや気持ちである。
立場が変われば捉え方も変わる。
物事を異なる視点で見ることによって捉え方を変える。
この方法を「リフレーミング(再枠付け)」と言いう。
例)コップに半分の水→「もう半分しかない」or「まだ半分もある」
リフレーミングは日常生活の あらゆる場 面でも使うこと ができる。
「落ち着きがない」→「活動的」「元気が良い」
「暗い(性格)」→「思慮深い」「物静か」
「空気が読めない」→「流されない」「自分らしさがある」
日常のネガティブなことを無理やりリフレーミング
・忙しい→充実している
・お金がない→失うものがない
・雨でキャンプができない→次にキャンプできる時に我慢した分楽しめる
・暑すぎる夏→海が最高に気持ち良くなる、ビールが美味しくなる
・老後が不安(年金だけでは生きていけないらしい)
→政治への疑問、関心を持つ人が増える or →年金を当てにしない、自分で考えて生きる
上に挙げたリフレーミングも一例である。
日々の事柄をリフレーミングする癖をつけると、自分の考え方の幅を広げられる。
現在嫌なことに無理に耐えている人は、その考え方を変えることで少し楽になるかもしれない。
もっと言えば耐える必要があるのかと思えるかもしれない。
リストカット(リスカ)について カウンセリングの中で考えてみたこと
相談に来た学生で、リストカット(リスカ)をしていた・現在している、という人は少なくない。
カウンセリングに来ていなくても、リスカ経験者は意外とたくさんいる。
リスカする理由
・死にたいから
・辛い感情から逃れるために
・自分の存在を確かめるために
上のようなことが昔から言われている。
加えて、リスカしている人と関わる側の中には、アピール(かまってほしい等)のためにやっているのでは、と考える人もいる。
総じて、辛い感情や死にたいほどの苦しみを抱えているということは言えそうである。
かまってほしいというアピールという考えも、その背景を想像すれば、なんらかの辛さや寂しさがあるからこその行動であると言える。
しかし実際のところはどうなのだろうか。
カウンセリングの場面で、リスカの背景や理由、感情を聞いていて、分からないことが多い。
上のような理由を当てはめれば、まぁそれなりに説明はできそうだが、どうも腑に落ちないところが多々ある。
というのも、リスカをする動機や感情に(もちろんケースによるのだが)生き死にに関わる切迫さが伝ってこなかったり、いかにも普通で困っていることは特に思いつかないという子がいたりする。
困っている感じと、行動(リスカ)のギャップがあり、リスカの捉え方を見直さないといけないのではないかなぁと感じたのだ。
もちろん人によっては、辛い感情を受け止められないから行動化するのであって、感情を解離(切り離して)させて話しているから切迫さを感じられないだけ。
本当は深いところに苦しみがあるという可能性もあるので、見逃すことはできない。
しかし、リスカは苦しさや死にたい気持ちがあるからだという決めつけも良くない。
なので、自分なりに少し考えてみる。
リスカのきっかけ
・友人に勧められた
これは結構多い。
もともとリスカをしている友人がいて、それを止めるのではなく、勧められてやってみたという。
友人グループでやるという人もいて、その場の雰囲気でやってみるという。
・ネットで興味を持った
SNSでリスカについて調べてもらえばわかるが、傷跡の写真をアップしたり、リスカに関するつぶやきはすぐに出てくる。
・なんとなく始めた
特にこれといった理由はないが、衝動的にやったのがきっかけという人もいる。
リスカの認知度が上がり、友人やSNSを通して、違和感なく情報が入ってくるようになっているように思われる。
リスカしたいと思う時
・嫌なことがあった時、イライラ、気分の落ち込み、不安、孤独
実際に嫌なことがあった時、リスカしたくなる
リスカのことだけに集中できるのでそれ以外のことは忘れられる。
・なんとなくする
常習的にやってしまう。
リスカした後
・気持ちがスッキリする
嫌なことが忘れられる。
楽しい。
・罪悪感
やってはいけないと思っていたり、止められなかった自分への罪悪感
多くはリスカしたくなるのは、嫌な体験に伴う辛い感情や、関係なく漠然と不安感や孤独感があるという。
そしてリスカすると、そういった気持ちが一時的にしても忘れられ、スッキリする。
その体験が楽しいという人もいた。
死にたいくらい辛い、とまでは言わないにしてもなんらかのネガティブな感情は体験している。
(当然、人によっては本当に死んでしまいたいくらい辛い気持ちの人もいる)
僕が疑問に思ったのは、
辛い、苦しい、孤独などの感情があったとして、そこからリスカに至るまでのプロセスだ。
上に挙げた例では、その感情があり、すぐにリスカによってスッキリしようとしている。
この間に「悩む」という過程が抜け落ちている。
嫌なことがあった時、
気持ちが落ち込む→悩む→解決策を見出す、又は悩み続ける→気持ちが正常に戻る。
ざっくり言えばこれを繰り返すと思う。
しかし、リスカを当てはめると、
気持ちが落ち込む→リスカする→気持ちが戻る。
ということになる。(ごく簡単に書いたので、もちろんそうでない人もいる。何度も言うがケースによって違う)
つまり、「悩めない」ことにより、感情をうまく処理できず、一時しのぎとしてリスカをしてしまう場合があるのではないかと思えるのだ。
「悩む」と言うのは時間がかかるしエネルギーもいる。
さらに悩んだ末、具体的な解決策が出ないことも多い。
「悩むだけ無駄」と言われるように、とても非効率な作業のように思える。
しかし、悩むことをやめ、効率的、合理的な生活ばかりに行き過ぎると、どこかで歪みが出るのではないだろうか。
今回は最近のリストカットについて、少し従来と違う角度で見てみた。
一つの説に過ぎないし、繰り返し書いているが、リスカの考え方はそれぞれ違う。
最後に、
もし身近にリスカをしている人がいるのなら、「この人は病んでいるんだな」「辛いことがあるんだな」と決めつけず、聞いてみるといい。
実際にリスカをしている人で、もしやめたいのであれば、それをする理由を一緒に考えてくれそうな人に話してみてもいいと思
う。
以下、参考までに、悩むことの重要性について考えた記事を貼っておく。
悩む力
「悩み」の存在は、ネガティブなものという認識をどの人も共通に持っていると思う。
いや、「悩み」があるからこそ頑張れる、人生には必要不可欠だと言う人もいる。
今回は「悩み」が良いものか悪いものかという点についてではなく、「悩み」に対しての向き合い方を考えたいと思う。
まず「悩み」とは
辞書で引くと、思いわずらうこと。心の苦しみ。という定義がされている。
精神的に苦痛・負担を感ずること。というのもあった。
悩みがある状態・精神的に苦しい状態から脱却したい。
言い方を変えれば、苦しくない状態にしたい。なりたい。
大抵はそう思う(例外もあるが)。
カウンセリングに来る人の多くも、悩みを抱えて、それをなんとかしたいと思ってやってくる。
そして人は苦しみの度合いは違えど、様々な悩みを日々抱えながら生きている。
悩みなど何もない、諸行無常だと心の底から言える人は、悟りを開いている人くらいだと思う。
「悩んでもしょうがない」という人もいる。
しかし、これは悩みがないというわけではない。
悩みはあるが、それに捕らわれていても何も変わらないから、切り替えていこう的なニュアンスだ。
ちなみに、悩みを相談した時に、相手に「悩んでもしょうがないよ」と言われて、スッキリする人はあまりいないと思う。
確かに「悩んでもしょうがない」のかもしれないけれど、そう思えないから悩んでいる。
わかってもらえない感じだけ残って、もうこの人には相談しないでおこうと思ってしまうこともある。
だから「悩んでもしょうがないよ」「考えすぎだよ」「気にするな」は、あまり共感的な返答ではない。
(悩んでいる人の状態や、性格、お互いの関係性、その悩みの種、によっては有効かもしれないが)
話が逸れたが、とにかくよほど達観した人でない限り、悩みはつきものである。
この苦しい状態にどう向き合えば良いのか。
また悩み抱えた人にどんなことができるのか。
そこで僕が大切だと思うのが、悩む力をつけることだ。
悩み続ける力、とも言い換えられる。
悩む、つまり苦しい状態でありながら、それでも葛藤したり考えたりし続ける力だ。
悩みを抱える=苦しみに耐える力がないと、行動化したり、別の物で補ったり、他者に押し付けたりする。
悩むべき課題を無視し、楽な方へと向かっていく。
近頃、悩めない人が多い印象を僕は感じている。
悩むことは苦しい。
しかし悩みは常に存在する。
ならば悩みと付き合っていく力をつけていかなければならないと思う。
具体的にどうすればいいということではない。
とにかく悩むしかない。
とは言え悩み方もある。
どうにもならない悩みに対して「もうダメだ」「おしまいだ」とひたすら思っていても向き合っているとは言えない。
悩みを解決はできないけれど、「なぜ自分はこの事に悩んでいるのだろう」「何が自分を悩ませているのだろう」と、どんどん積極的に悩んでいくことが大事だ。
しかし、悩むことに慣れていない人もいる。
そういう時は誰かに相談して悩むヒントをもらうといい。
できれば上手に悩める人に。
先の「悩んでもしょうがない」という人は、悩むことが苦手かもしれない。
僕のカウンセリングは一緒に悩み続けること、と言えるかもしれない。
そして少しずつ悩む力がついてこれば、それはそのまま生きる力になるのではないかと思う。
(あくまで僕の印象だが)悩めない人が増えている傾向に、危機感を抱いている。
それについてもまた考えていこうと思う。
不登校はその原因より意味を考える
不登校の相談は僕の感触的にケースのうち半数にのぼっている。
時々休むという人や、学校に通ってはいるが行きたくないという生徒を含めるともっと多いかもしれない。
実際に不登校者数は小中では年々増加傾向にある。
高校の場合も数自体は減っているが、通信制高校への転入が増え、数値では見えないところもあるように思われる。
様々な対応や、心理的なケアを学校は行うようにしているが、依然として減らない。
そもそも不登校とは何なのか。
「何らかの 心理的、情緒的、身体的あるいは社会的要因・背景により、登校しないあるいはしたくともできない状況にあるために年間 30日以上欠席した者のうち、病気や経済的な理由による者を除いたもの」
不登校の原因
・家庭の問題
・学校の問題
・個人の問題
この三つから原因を探すことが多い。
原因が分かれば、これを解決するためにどのような働きかけをすればいいのかわかると思えるからだ。
しかし事はそう単純に進まないことが往々にしてある。
原因が分からないというケースはよくある。
本人も何故学校に行きたくないのか、行けないのかがわからない。
原因がわからないとなると、親も学校の先生もどう働きかければいいのか分からなくなる。
とりあえず原因があるはずだと本人を問い詰めたり、強行策を取ったり、最後は諦めたりする。
最近では登校刺激を控えた方が良いという考え方が浸透し始め、休むことが大事という意見が一般的である。
しかし実際のところ、家族目線で考えると、休めば休むほど学校に行きづらくなるのではと心配になるのが心情であろう。
高校生の場合だと欠課が増えれば留年になってしまうので、不安や焦りも強くなる。
ではどんな対応が望まれるのか。
結論から言えば、ケースバイケースなのでマニュアルを用意しても仕方がない、というのが僕の意見だ。
なので今回は対応の仕方の方法論よりも、不登校の捉え方を変えることを提案したい。
まず不登校になってからの流れをみながら、考えてみる。
・原因を問い詰める
何故行けないのか本人がわからないと言っているのに聞き出そうとしても仕方がない。
周りが焦っている以上に、本人は自分でもわからない自分の状態にもっと焦っているし、不安だ。
その上、周りから責められるように問われ続ければ立場が無い。
自分がどうしようもなくダメな人間だと思ってしまうだろう。
・登校を強行
無理やり学校に連れて行くやり方は、言わずもがな、本人の気持ちはないがしろにされている。
学校に行ってしまえば普通に過ごしている、という声もよく聞くが、学校に連れて行かれて駄々をこね続けたりする人が逆にいるだろうか?結果次の日も行きたくないのは変わらない。
小学生くらいならまだ無理やり連れて行けるが、中学、高校生にもなれば引っ張って連れていくわけにもいくまい。
・諦める
押しても引いても動かない本人に、周りは最後には諦めるしかない。
ここまで来ると、逆に考え方に変化も出てくる。
どうしようもないという感覚となり、それが突き抜けると、「なるようにしかならない」と思えるようになる。
今まで学校に行かなければならないという執着があったが、諦めることで少し気持ちが楽になったりする。
全てのケースに当てはまるわけではないが、だいたいこのような流れではないだろうか。
いろいろ試行錯誤した上で、諦め、「なるようにしかならない」と開き直った時に、実は好転いていくことが多いように思う。
ここにヒントがあるように思える。
ところで、我々は物事の本質が、原因と結果で成り立っていると考えるのが当たり前になっている。
問題が起こった時、原因を突き止め解決しようという考え方だ。
しかし、人間の心はそんなに合理的にできてはいない。
科学の進歩はあらゆることにエビデンス(根拠)を求めるようになった。
どんな結果に対しても、理由や根拠があると信じている。
ある意味でそれは正しいが、原因と結果が目に見える形として意識で捉えられる形として現れるとは限らない。
むしろ原因と結果で説明がつかないことや、不条理な出来事の方が多い。
そのことを忘れてしまっている。
不登校を考える時も同じである。
その原因は複雑に絡み合い、頭では理解できない状態で、当事者にもわからないかもしれない。
もしかしたら原因などないのかもしれない。
そうなると原因に執着することはナンセンスなのである。
ではどのように考えればいいのか。
それは不登校の意味を考えることだ。
その子が生徒が(自分自身が)学校に行かないのは、どんな意味があるのだろうか。
過去に遡ってその理由ばかりにこだわるのではなく、この不登校が何をもたらし得るのか。
そして不登校は本当に解決すべき問題なのだろうか?と、もう一度問い直してみるのも良いだろう。
多様性が認められる時代、不登校という選択が認められても良いのではないだろうか。
行かないということが問題であるという、枠組みを一度外す必要がある。
そういう視点に立って、不登校の意味を考えれば、学校に通うよりももっと大切な気づきが得られるかもしれない。
心理カウンセリングの相談内容について
最近、心理カウンセリングの需要が高まっている。
今年度から公認心理師という国家資格が誕生し、既に医療、福祉、教育、企業、様々な場所で活躍を始めている。
もともと臨床心理士を筆頭に心理に関わる資格はいくつも存在していたが、国家資格ではなかった。
様々な場面で心の問題が取り上げられるようになり、ようやくその必要性が社会全体に認められ始めたところだろう。
一方で、世間一般に馴染んでいるかと問われると、まだまだ距離があるように思われる。
カウンセリングを受ける人は、うつ病や統合失調症、発達障害、パニック障害、不安障害、、、心の病気になっている人、というイメージを持たれているかもしれない。
実際にそういった診断に当てはまる人が、心療内科や精神科を受診されることが多い。
ではそれらに当てはまらないという人は、カウンセリングとは無関係なのだろうか?
カウンセリングはどういう時に利用したらいいのだろうか?
結論から言えば、カウンセリングはどんな人でも受けられる。
極端な話、悩んだり、困ったりしていなくても、本人の何らかの動機さえあれば誰でも受けることができる。
(ただし、病院やクリニックは医療であるので、ただカウンセリングを受けたいだけでは受けられない。実際に受けてみたいと言う人は、心理相談室など心理士がいて、カウンセリングをメインで行なっているところに行くのが良い)
では、実際にカウンセリングでの相談内容はどんなものがあるのか。
1、人間関係の悩み
家族との関係、恋人との関係、友人との関係、職場の同僚との関係等、人との関わりにおいて生じる悩み。
例)
- 母親(もしくは父親)が怖く、話すのも緊張してしまう。
- 兄弟のことをどうしても好きになれない。イライラしてしまう。
- 恋人に対して束縛してしまう。嫉妬心が抑えられない。
- 友人関係をうまく作ることができない。
- 苦手な同僚がいるが、関わり方がわからない。
人間関係での悩みのほんの一例である。
ここに当てはまらなくても、人間関係において何かしらのストレスは誰しも経験したことはあるだろう。
こういった内容の愚痴を聞いたり話したりしたことがある人がほとんどではないだろうか。
カウンセリングでもそんな話題はいくらでも上がる。
2、環境の悩み
家庭、学校、会社、その他集団、、、その場によって生じる悩み。
例)
- 母子家庭(または父子家庭)で、特に親との関係が悪いわけではないが、モヤモヤすることがある。
- 家庭に経済的な余裕がなく、焦りがある。
- イジメにあっている。
- 何となく学校が合わないと感じている。
- パワハラやセクハラにあっているが、相談できるところがない。
人間関係とも取れるが、環境の影響によるところが大きいと思われるので、分けて捉えてみた。
個人の力だけではどうにもできない状況もある。
解決できそうもない苦しみに思われて、時に絶望したり、諦めざるを得ない気分になる。
話したところで解決できないだろうと思える。
実際、投げやりな状態で相談される人もいる。
僕自身どうすればいいのか分からない気持ちになることもある。
しかし、とにかく考えるしかない。
そんな途方にくれる様なことだって、カウンセリングで話しても良いのだ。
3、個人の悩み
気分、行動、考え方、能力、身体的、、、個人的なことで生じる悩み。
例)
- 気分の浮き沈みが激しい。
- 涙が止まらない時がある。
- 不意にくる焦燥感や不安感。
- どうしてもやめられない行動がある。
- リストカットをする。
- いつもネガティブに考える。
- 自分が他の人より劣っていると思う。
- コミュニケーションがうまくできない。
- 勉強ができない。集中力がない。
- いつもミスや忘れ物をしてしまう。
- 眠れない、食欲がない、腹痛や頭痛がある(医療機関では原因不明)。
ある意味では全て個人の悩みとも言える。
人間関係にしろ状況にしろ悩んでいるのは個人の問題だ。
切り口が違うだけだ。
悩みが複雑に絡み合っている場合もある。その方が多い。
カウンセリングではそれを解きほぐす作業をしているとも言える。
例に挙げた状態も、その程度の差こそあれ、誰しも悩んだり苦しんだりしたことがあるのではないだろうか。
誰でもあることだから、カウンセリングを受けるまでもないことなのではないかと思う必要はない。
動機さえあれば誰でもカウンセリングは受けてもいいのだ。
笑いについて 芸人ナダルに見るイジることイジられること
ある落語家が笑いは「緊張の緩和」によって生じると言った。
「緊張の緩和」は生理的に快であり、この快が笑いにつながるということだ。
例「いないいないバァ」で笑う赤ちゃん
「いないいない」顔が見えない状態は緊張(不安)で、「バァ」と顔が見られて緩和(安心)し、笑顔が出る。
身近に起こる笑いも「緊張の緩和」で大体説明がつくと思う。
逆にスベってしまった体験や、自分の話しが面白くないと感じる時、参考になるだろう。
今回は最近よくテレビで見かける芸人コロチキのナダルの笑いについて、考察してみる。
ナダルはその芸風?性格から、仲間芸人から暴露されるエピソードが取り上げられることが多い。
そのエピソードを簡単にまとめると、先輩に失礼、デリカシーがない、プライドが高い、嘘をつく、性欲が強い、に関連するものである。
暴露されるエピソードもパンチのあるものが多い。
しかし実は、暴露された後のナダルのリアクションが笑いのピークになっている。
Youtube等で動画を見てもらうとわかるが、パンチの強すぎるエピソードで、観覧のお客さんから悲鳴が出たり、引いていることがしばしばある(緊張状態)。
しかし直後にお客さんの反応を受けたナダルのリアクションや、テンパった状態がおかしく、大きな笑いが起こっている(緩和)。
ナダルの面白さは受身的、つまり「イジられる」ことによって笑いが起こっている。
このような「イジられキャラ」は僕たちの身の回りにもいる。もしかしたら自分がそうだという人もいるだろう。
イジられキャラは、学校や会社、もしかしたら家庭にもいる。
集団の中には一定の緊張感がある。
集団が大きければ大きいほど人間関係は複雑になり、その分緊張も強まる。
その緊張の緩和をイジられキャラが担っているところが大きい。
意識的・無意識的な緊張(不安)をイジりやすい人をイジることによって、緩和(安心)しようとする。
例えば話題がなくなった時に、とりあえずイジっとく、みたいな感じだ。
みんなはそれで和むし笑いが生まれる。
しかし、イジられる側はどう思っているのだろうか?
イジられキャラ本人もその場を楽しんでいるかもしれない。
本当は嫌だけど、キャラにはめられて抜け出せないと思っているかもしれない。
自分がそういう役割だと意識して、ある種の使命感でやっているのかもしれない。
その時、その場、その人のコンディション、関係性などによって感じ方が違うかもしれない。
これに関しては、本人にしかわからないことだ。
なので、笑いということに注目して考えてみたい。
先述したように、笑いは緩和(安心)によって生まれる。
イジる側だけでなく、イジられる側もまたそれを見ている第3者も安心を共有していないと、全体として笑えない。
この安心を共有するには、前提に両者の信頼関係が成り立っていることが重要なのではないだろうか?
ナダルの場合は、笑いを求める芸人同士の信頼関係が成り立っている。
またテレビという枠の設定がある。
テレビ(バラエティ)は笑いを提供するという前提があり、見ている側も共通の認識を持っている。
視聴者がテレビに対して信頼しているので、安心して笑える(テレビに不信感を持っている人は笑えないかもしれないが)。
信頼関係なき一方的なイジりは、イジる側は楽しい(安心)かもしれないが、イジられる側は苦痛だ。見ている側も笑えない。
信頼関係が成り立っていなければ、イジりはイジメに繋がるし、立場が変わればパワハラやモラハラ、セクハラに変わる。
笑いは信頼があってこそ起こるものであり、芸人のマネをして、安易に笑いを取ろうとすると大きな間違いを犯すこともある。
もし身近にいじりによって間違った笑いを取ろうとする人がいたら、面白くないと指摘した方がいいかもしれない。
指摘できなければ、合わせて笑わないことが大事だ。
笑えないイジりの対象にされているという人は、その人がなぜイジってくるのか考えてみてもいい。
きっとその人はイジることで安心しようとしている、つまり何かしらの不安を持っているということが見えてくる。
そうすると息巻いてイジってくる人が、どれほど小さい人間かわかるだろう。
イジられて笑いを取れる芸人は尊敬に値する。
ナダルも山里も面白い。
心理学的な理解やカウンセリングが求められ始める時代
最近ニュースで、精神科医や心理カウンセラーといった肩書きを持つコメンテイターが見かけられることが増えた。また、事件や社会的問題について心理的な分析を専門家に依頼するケースもよく目にする。
つい先日の川崎登戸の殺傷事件についても、死亡した犯人について、動機や性格などを警察はもちろんプロファイリングしている。その凄惨な犯行から、「なぜこのようなことが起きてしまったのか」と言う点を誰しも考えるようになる。報道では、犯人の生育歴から生活環境まで扱っているし、そういった情報からネットでも様々な意見が飛び交っている。
僕たちは起こってしまった出来事に対して、「なぜ起きてしまったのか」「どうしてこうなったのか」と言うことを考えることが癖になっていると思える。この合理的に処理しようとする思考は、同じ過ちや悲劇を繰り返さないためにする手段である。起きたことが、自身にとって好ましい結果なら、もう一度そうなるように、またはさらに上手くいくようにと考える。
この合理的な考えが科学的にも物質的にも誰が見ても明らかで、納得できるものであれば、その原因と結果の道筋が正しいかのように見える。この正しいかのように見える
と言うのが、意外と厄介だと思っている。
例えば、今回の事件について、犯人がなぜ犯行に及んだのか、それっぽく考えてみよう。報道によると犯人は51歳の男性で叔父叔母と同居していた。幼少期から家庭の環境に恵まれず、社会的に孤独感を強めていた(かもしれいない)。学生時代は「怒りっぽい性格」「すぐに暴れる」「からかわれやすい」と同級生は語っており、卒業後は音信不通だったとのこと。高校には行っておらず、仕事は点々としていたとのこと。
「怒りっぽい」「暴れる」と言う点において衝動性が高い気質の持ち主(かもしれない)。「からかわれる」原因は周りになじめない、空気が読めない性格で、(もしかしたら)知的にも低かった(のかもしれない)ため高校に行けなかった(かもしれない)。(以下かもしれない省略)さらに卒業後、仕事の人間関係でもからかわれ、衝動性の高さによってトラブルは続いた可能性もあり、点々と職を変えた。
そのため信頼の置ける人間関係は築けておらず、友人もいない。次第に孤独感を強めていった犯人は、自殺に思い至る。しかし孤独感と絶望感は社会への恨みに代わり、道ずれに無差別な殺人を決意し、犯行に至った。
以上、報道やネットから拾ってきた、極々少ない情報からそれっぽく考察してみた。しかしこの考察が正しいと個人的には思っていない。いや、99パーセント間違っていると思っている。しつこく「かもしれない」を強調したのはそのためだ。
一つの見方として、上述のような考察はできる(実際ネットで似たような考察がされていた)が、動機も性格も犯人の生育歴も、これが全てではないはずだ。
例えば、同級生は今回のことがあり、「怒りやすい」「暴れる」と言う印象だけを語ったのかもしれないし、本当は友人もいたのかもしれない(事件後、友人がいたとして、わざわざ名乗り出る人はいない)。高校卒業後も趣味に没頭して、自由にやっていたかもしれない。
また、例え孤独な生き方をしていたとして、同じような境遇の人が皆、殺人犯になるわけではない。孤独→怨み→殺人と言うシンプルな説明はするべきでないと感じる。
犯行の動機も、その日たまたま同居人と激しい喧嘩をし、衝動的に飛び出したのかもしれないし、たまたま包丁を手にしていたら、人を切りたいと思ってしまったのかもしれない。カミュの『異邦人』では殺人を犯した主人公は、殺人の動機を「太陽が眩しかったから」と言っている。
結論として僕が言いたいのは、全てを理解することなどできないと言うことだ。わかったような気になることはできても、本当のところは実は分かっていないことの方が大きい。自分に都合のいい解釈、価値判断をしてしまうもので、それっぽい合理的な説明があれば、そうだとしか思えなくなる。
原因があり、結果がある。と言う考え方に固執しすぎると、見落としてしまうことの方が多いように思える。
心理的な分析も、統計的な観点から傾向はわかるかもしれないが、全てではない。
しかし我々は、最初に書いたように「なぜこのようなことが起きてしまったのか」ということに対する答えをいつも求める。どうにか説明のつく形にするために、心理学やカウンセリングに手を出し始めた。
なんとか分かろうとする姿勢は必要だと思う。しかし同時に、何もかもが明らかになるわけではない、という前提を持つ必要がある。そして、分からないものを分からないまま持ち続け、悩んだり、思考を熟成させていくことが、答えを知るよりも大切なのではないかと思う。
最後に、僕は犯人を擁護しようとも、同情するとも思ってはいない。事件のことで悲しみや恐怖を感じるのはもちろん、被害者やその家族のことを考えれば、言葉にできないくらい辛い体験だったと想像する。いや、想像を絶する苦しみがあるだろう。
そう言った方々への精神的なケアも今後必要になってくるはずである。
例えば被害者遺族や関係者に対して、あなたの精神的ショックは親しい人を傷つけられた、あるいは殺されたからである、と原因を言い当てられたところで、心が楽になるわけではない。むしろその苦しみや悲しみ、やりきれなさ、身に起きた理不尽な体験を、時間をかけてゆっくりと受け止め、消化していくしかできない。周りにできることは、共に寄り添ってあげることであると思う。